日本人は知らない世界の葬儀事情~アジア編~
終活や葬儀について
突然ですが、葬儀に参加して「なんでこれをするようになったんだろう?」って思うことありませんか?私は「お焼香って誰かはじめにやりはじめたんだろう?」とかって思うタイプなんです。そこで今回のカトトピでは、そんな私の素朴な疑問を解決するため葬儀のルーツを探ってみました。調べてみると、古くから習慣として根付いているものから意外と歴史が浅いものまで、衝撃の事実が続々! では、「弔いの歴史」の授業のスタートです。
まずは、お墓のルーツから。一般庶民がお墓を建てるようになったのは、いつでしょうか? 正解は約400年前と言われています。その背景には、小中学校時代に歴史の授業で教わった「島原の乱」が大きく影響しています。この事件以降、寺請制度が敷かれ、すべての人がどこかの寺の檀家になることに。キリシタンの監視が目的だったこの制度が浸透したことにより、庶民の間にお墓を建てる習慣が浸透するようになったそうです。
ただお墓という概念自体は、世界最大級の古墳、仁徳天皇陵があることからもわかる通り、かなり昔からありましたが、中世以前の庶民はお墓をもつことができず、故人の亡骸を野山に埋め、時には捨てなければいけないこともありました。貴族を筆頭とした一部の特権階級に属する人しかお墓を持つことができなかったため、お墓を持つということは庶民の憧れでした。江戸時代のこういった出来事がきっかけとなって誰もが平等にお墓を持てるようになったことは、弔いの歴史上、とても画期的な出来事でした。
日本史史上最大の改革といっても過言ではない明治維新を経て、日本が近代国家へと成長を遂げていった明治期には、現在の弔いのスタイルに近い習慣が次々と根付いていきました。そのひとつが告別式です。この告別式をはじめて行ったのが、「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残した板垣退助です。「葬儀不要」という遺言を残してこの世を去ってしまった中江兆民のために、板垣退助が無宗教式の葬儀を執り行ったことが告別式の原型と言われています。現在では、葬儀と告別式の違いがあまり明確にはなっていませんが、ルーツを知ればその違いも明らかになるのではないでしょうか?
また、昭和生まれの方なら一度は見たことがある派手な装飾が施された霊柩車。これは正式には宮型霊柩車と呼ばれ、その元祖は早稲田大学の創始者として知られる大隈重信です。1922(大正11)年に行われた大隈重信の葬儀は、約30万人もの一般市民が参列した、とても大規模なものでした。そこに登場したのが、丸に花菱の家紋が飾られた扉や白桧の館型屋根を備えた霊柩自動車。これ以降、人生の労をねぎらうため、豪華な霊柩車で遺体を搬送することが浸透しました。しかし、1980年代ころになると、葬儀の多様化が進んだこともあり、いろいろなタイプの葬儀に汎用がきく洋型のシンプルな霊柩車が一般的になりました。
葬儀などは頻繁にあるとよろこばしいことではありませんが、このように葬儀やお墓の文化について掘り下げることは、日本の文化を再発見するうえで、とても重要だと思います。カトトピ読者の皆様も、興味がある葬儀の習慣などがあれば、そのルーツを探ってみてはいかがでしょうか。
「川西中央霊園」や「墓じまい」など、知りたい単語を検索していただくことで関連ページを一覧表示します。